娘達が父を選んだ理由:信子さまが精神的虐待?
信子さまと彬子さまの当主問題はいろいろ言われていますが週刊現代にいろいろと真相が書かれていました。2015年6月20日号の記事です。
子供を精神的に追い詰める「毒親」が世間で話題になっているがそんな中、日本の皇室では、母と娘の長きにわたる葛藤が明らかになったということですね。
その舞台は多くの人に愛されたはずの「三笠宮家」だったということですね。実はこの時点で彬子さまから「私も10年ほど、母とは会っておりません」という話を聞いたようです。
これは彬子さまから直接聞いたようです金閣寺や銀閣寺住職をしている有馬賴底氏ですね。有馬氏はヒゲノ殿下とも非常に親しくしていたようです。
1984年にはヒゲノ殿下と信子さまも夫婦で京都へ来ていただいたこともあったようです。そして食事を一緒にしたこともあるようですね。
ヒゲノ殿下はお酒が好きだから一緒に飲んだこともあるということですね。だから2012年に66歳で寬仁殿下がお亡くなりになられてから、彬子さまより『京都の東山文化を研究したい』とのお申し出があったようです。
それで昨年まで銀閣寺の研修道場で美術研究員として勤務していただいたということですね。つまりなんか中国が絡んでいるとか何でも中国が好きで結び付けたい人もいるようですがそうではないわけですね。
そしてその頃、有馬氏が彬子さまに母親の信子さまとの関係を尋ねたらもうその頃には10年ほど会っていないということだったわけですね。
彬子さまは信子さまと疎遠になっていることを隠す様子は無かったということですね。でも実の母親なわけですね。だから驚いたようです。
この頃はヒゲノ殿下が亡くなって3年が経った命日である6月6日には、天皇・皇后以外の皇族専用の墓地、豊島岡墓地(としまがおかぼち)にて三年式年祭が執り行われたばかりだったわけですね。
寬仁親王と信子さまが結婚したのは1980年のことです。まぁ実の兄が麻生太郎さんで有名ですよね。そして父は麻生セメントの創業者で母親の和子さんは吉田茂の三女という、華麗なる一族の出身ということですね。
だから養子とかしてでも家柄とかをすごく気にする家だったのかもしれませんね。信子さまとは仲が悪くなってDVとかも言われていましたが麻生太郎さんとヒゲノ殿下は凄く仲がよかったようです。
それでお酒とかもよく飲んでいたようですね。だから麻生太郎さんが妹の信子さんにヒゲノ殿下と結婚するように勧めたようです。
それでヒゲノ殿下も信子さまを気に入ったようで何度もプロポーズをしたようです。でもその度に和子さんが『娘には心身に障害がございますから、妃殿下はとても務まりません』と断られたようです。
ここで分かるのは結婚前から心身に障害があってストレスとかに弱かったことがわかりますね。だから彬子さまが美智子さまのようにすべての週刊誌とかをチェックしていたら本当に信子さまが病気と言うのは分かったと思いますけどね。
つまり本来であれば週刊誌ウォッチャーの美智子さまが彬子さまに信子さまは本当に病気なのよと教えてあげなければいけないのですが信子さまは愛子さまのお歌を詠まれたことから雅子さまよりだったのでしょうね。
だから美智子さまからは気に入られていなかった可能性がありますね。そして皇后から信子はダメだと言い聞かせられている環境だと信子さまが悪者になっていたかもしれませんね。
皇室は特別な環境ですからね。皇族数が少ないから多数決だと秋篠宮ご夫妻とか上皇ご夫妻がヒゲノ殿下の意見に賛同したら信子さまはいじめられることになりますからね。
三笠宮家の親族もヒゲノ殿下の味方だったようだし彬子さまとしたらヒゲノ殿下が全部正しいという感じだったのでしょうね。もしかしたら信子さまは病気のフリをしているだけだと言われて本気で今でもそう思っているかもしれませんね。
だから本当は宮内庁が間に入って会話を出来る状態にしなければいけないと思うんですけどね。ちなみにヒゲノ殿下は結婚する前に最初のプロポーズから7年後、ようやく信子さまの両親を説得し結婚したわけですね。
そして翌年に彬子さまが、その2年後に瑶子さまが誕生したわけですね。まぁ寬仁親王も皇籍離脱発言などで物議を醸したりしましたが多くの国民の目には、三笠宮家は愛情に溢れた幸せな家庭そのものに見えたはずだということですね。
でも1990年、寬仁親王が食道がんに冒されたわけですね。がんは一度ならず、次々と転移し、その度に手術を受けたわけですね。
手術はすべて成功したけども食が細くなって、一回の食事の量を減らす反面、回数を倍の6回に増やさなくてはいけなくなったようです。
それで当時、信子さまがその食事の用意をして看病するなど、『非常に信子には感謝している』としみじみと言っておられたようです。
でも2003年になって8年ぶりにがんが再発した頃から、信子さまの姿を殿下の周辺でぱったり見かけなくなったようです。そして翌年7月に、信子さまは軽井沢の別荘に移ってしまったということですね。
まぁ恐らくこの病院ではなくて別荘と言うのが彬子さまとしては気にくわなかったところかもしれませんね。病人をほったらかして静養かよという感覚になったのかもしれませんね。
もしそうなったらそこから会話をしないわけだからその思考が変わることは無いですからね。もちろん宮内庁がこういうことだと思いますよとか仲介していたら喧嘩もすぐに仲直りしていたんでしょうけどね。
宮内庁は皇室を破壊しようとしているようにも思えますからね。宮内庁をアメリカが操っているとしたらなんとか皇室を破壊するために必死でしょうからね。
そして皇室が破壊されたら日本に核兵器とか武器も購入させたりアメリカのもっと奴隷にしやすくなりますからね。その為には中国やロシアをどんどん嫌ってもらう必要があるわけですね。
そして台湾有事という言葉を植え付けたりしてそれと同時進行で皇室を破壊したら自民党や与党だけで決めることが出来ますからね。
統一教会が集めた憲法改正集会には全ての党の党首クラスが勢ぞろいしていて統一教会が考えた憲法改正案に賛成していましたからね。
まぁただ信子さまもさすがに静養されてから入院もされてそれからヒゲノ殿下が亡くなるまで二人は別居したままだったわけですね。
ちなみに表向きは、信子さまの体調不良が別居の理由と説明されたけども関係者の間では、二つの説があるということですね。
一つは、アルコール依存症ですね。ヒゲノ殿下は酒乱で信子さまに暴力をふるうからそれから逃れるために「避難」したという説ですね。
さらにもう一つは、心身のバランスを欠いた信子さまを家から遠ざけるために寬仁親王が「幽閉」したという説のようです。まぁ閉じ込めるということですね。
まぁ両方が絡んでいるかもしれませんね。ただ寬仁殿下は一時期、真剣に離婚を考え、信子さまの臣籍降下まで考えていたようです。
そして娘二人は父親の側についたということですね。それから娘と母は10年間、対立したままだということですね。まぁ信子さまの臣籍降下を考えるっていうのもこれまでの経緯を考えるとちょっと寂しいですけどね。
自分が7年間も告白し続けて結婚して凄い大変な食事の看病もしてくれたのに普通なら信子さまの方につくと思いますが娘さんは父の方についたわけですね。
実はその理由は他にもあるようですね。皇族も人間だから長年、仲睦まじかった夫婦の関係に亀裂が入ることも、世間ではよくあることということですね。
でも病身の夫とも別居し、娘とも顔も合わせないほど疎遠になるとは、穏やかではないですよね。実はその背景に、信子さまによる「2人の娘に対する精神的虐待」があったと『インサイドライン』というメディアが報じたようです。
ここの編集長は歳川隆雄(としかわたかお)さんで朝まで生テレビとか激論クロスファイアといったテレビ番組にも出演したことがあるジャーナリストです。
この記事では〈暴力は伴わないものの、娘達を立たせたまま数時間も説教したりするなど、母親としての躾・教育を逸脱した精神的虐待を日常的に繰り返していた〉ということです。
そして〈2人の女王殿下が成人後に初めて父親に打ち明けて知ったことだったという〉とあるわけですね。そして瑶子さまが成人したのは、2003年10月で寬仁親王と信子さまの別居が始まった時期とも符合するということですね。
娘からの告白を聞いて、寬仁親王は信子さまの臣籍降下を考え始めたようです。でも二人の離婚が認められることはなかったということですね。
そしてこうした家庭環境から逃れようと思ったのも一因となったのか、彬子さま2004年9月からイギリスのオックスフォード大学に5年間留学し、博士号を取得したわけですね。
母への不信感の真相:結婚しない理由
そしてこの2015年1月に留学記『赤と青のガウン』を出版しユーモアたっぷりに留学生活を綴ったわけですね。ここにはかつて同じオックスフォード大学に2年間留学した父・寬仁親王の思い出が随所に登場するようです。
でも不自然なくらいに信子さまについての言及がないようです。そして実はこの本にも信子さまとヒゲノ殿下や親子の家庭環境に関することにも触れています。
〈二〇〇六年の後半は、研究活動と論文執筆が思うようにいかず、家庭内の問題も重なって、精神的にかなり参っていた。夜眠れないことや、なんでもないときにぽろぽろと涙が出てしまったりすることもあった〉
と心境を綴っているようです。それで寬仁親王の薨去から丸3年を機に雑誌『正論』7月号に掲載されたインタビューでも、母親についてはまったく触れられていないようです。
まぁ正論と言えば統一教会を絶対に批判しない雑誌で未だに安倍晋三の名前ばっかり出している雑誌ですけどね。
この記事で寬仁親王殿下への思いとして彬子様の思いが綴られています。そこでは「家庭内の問題」から、母親を「いないもの」とする彬子さまの強い決意が見えるということですね。
ただその反面、寬仁親王が携わってきた活動を姉妹二人で分担するなど、娘たちは父の遺志を引き継ぎ、皇族として、三笠宮家の一員として奮闘してきたということですね。
でも信子さまは寬仁親王の薨去後も、赤坂御用地内にある三笠宮家の住居・三笠宮東邸には戻らず、娘たちと別居したままということですね。
ちなみにこの時に旧宮内庁長官公邸に侍女長一人を従えて暮らすとあったのでお付きの職員は一人だけのようですね。なんかそれを考えるとやっぱり上皇職65人もいるかなって感じですね。
もし信子さま、彬子さま、瑶子さまが別々の宮家になったとして職員を増やすなら上皇職から移動させてほしいですね。
それにしても寬仁親王の薨去時には娘たちに拒まれて「最期の別れ」をすることも叶わず、葬儀の際も喪主の立場を彬子さまに譲ったわけですね。
そして別居以降、公の場に姿を現すことがなかったが、近年、信子さまは精力的な活動を再開したということでまぁ彬子さま活動再開するなら国民に会見をと訴えていましたね。でも宮内記者会にFAXが届いたようです。
寬仁親王が亡くなられて1年後の2013年6月、突然、信子さまの名前で宮内庁記者会にFAXで〈復興支援などに尽力させていただきたく存じます〉と記されたFAXが届いたようです。
それまで療養中だったわけですね。だからみんな驚いたようです。実際、その年の11月には福島県の被災地を訪れ、仮設住宅では被災者に声もおかけになっていたようです。
8年間も家族と別居して、病気療養されていたとは想像もできないお姿だったと全国紙皇室担当記者の証言がありますがこの書き方もちょっと悪意がありますけどね。
そして信子さまはこの年の新年一般参賀にも19年ぶりに参加し、彬子さまの横で手を振ったということですね。そして4月には園遊会にも参加し6月に入ってからも、精力的に公務をこなしているということですね。
だから娘たちと同じ場所にいる機会も増えたわけですね。でも母と娘が言葉を交わすどころか、目を合わせる場面さえ目撃した人間はいないということで今の紀子さまと佳子さまの関係に似ていますね。
両者がこのような「冷戦」を続ける背景には、三笠宮家の当主の座をめぐる問題があるということですね。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司氏が解説しています。
これまでは『宮家』の当主である殿下が薨去されたら、その奥さまである妃殿下が当主になってこられたということですね。だから寬仁親王の薨去後は、信子さまが当主になるのが慣例ということですね。
でも寬仁親王家では、殿下が亡くなられた後、1年経っても結論が出ず、結局、寬仁親王の父君である三笠宮殿下を当主とする本家に、信子妃さま、彬子さま、瑶子さまの3方が入られるという形を取ったということですね。
なるほどそういえば寬仁親王が亡くなった時にも三笠宮さまはご健在だったわけですね。だからもし三笠宮さまが薨去されていたら百合子さまが当主の本家に合流していたのか微妙ですね。
でも、これは当面の対応ということですね。現状のままだとこの時に三笠宮さまが99歳で百合子さまが92歳だったから次の世代の当主はどなたになるのかという同じ問題が、将来出てくるでしょうということですね。
そしてその問題が今なわけですね。彬子さまにとって、母の信子さまが当主になることだけは絶対避けたいのだということですね。まぁ彬子さまは母に説教されて精神的なトラウマもあるわけですね。
寬仁さまが生前、離婚を口にしていたことから、信子さまに三笠宮家の跡目を相続させないことが、寬仁さまの『ご遺志』だと彬子さまは思っているということですね。
だから彬子さまが信子さまを嫌いというのもあるし信子さまを当主にさせないことが寬仁さまの遺言のように感じているんでしょうね。それで葬儀の際、喪主を務めた彬子さまが寬仁親王家の当主になる案も上がりましたが、こちらは信子さまのほうが強硬に反対したようです。
まぁ皇室も不思議な世界ですね。寬仁さまの葬儀や病院に見舞いとかそういうのは彬子さまが拒否できて彬子さまが当主になるのは信子さまが拒否できるということですね。
だから見舞も信子さまがしようと思えばできたけどもしなかったわけですね。どちらの顔も立てるということで、現状が一番波風の立たないやり方という状態だったわけですね。
天皇陛下が皇族を束ねるお立場にいらっしゃいますが、三笠宮本家は叔父にあたる家庭ですから、言いにくいでしょうと宮内庁関係者の証言で今の天皇皇后両陛下としてもここまでこじれてしまってからというのは対応が難しいでしょうね。
そしてもう一つ、彬子さまが頭を悩ましているのが、自身の結婚問題ですね。現在の皇室典範だと、結婚すると民間に出ないといけないわけですね。
そうすると、瑶子さまを一人、三笠宮家に残してしまうことになり姉としてそれは忍びないと感じておられるのではないかということですが今は瑶子さまとも関係が悪いですからね。
さらに瑶子さまも結婚をされれば、信子さまが残って当主になってしまうということですね。そういった事情もあり、彬子さまはゴールイン目前までいった男性との結婚を諦めたという話もあるようです。
なんか信子さまを当主にさせたくないから結婚できないというのも寂しい話ですね。まぁ他にも信子さまへの彬子さまの不信感の原因は信子さまが他の皇族から悪口を言われていると娘さん二人に話されたことも関係していると言われているようですがどうなんでしょうね。
彬子さまと瑤子さまが他の皇族を警戒して、他の皇族と交流するきっかけがなくなっていきそれが信子さまの被害妄想を信じたためとかいろいろ他にも言われたりしていますがこの問題は誰が悪いわけでもないですね。
一番悪いのは宮内庁ですね。皇族という特別な環境で信子さまと寬仁親王が結婚するように紹介した麻生太郎さんもなんか情けない感じもしますね。皇位継承問題の責任者でも何もしなかったですからね。
彬子さまはや瑤子さまは信子さまからの説教がいじめと感じて精神的ストレスで父親も離婚したいと言っていた人だから皇籍離脱してほしいと思っているんでしょうね。
でも皇族にはそんな権限はないですからね。まぁそれこそこういう当主の問題も皇族側から提案しても皇室会議をして両方から事情を聞いたりして家庭裁判所のような役割をしたらいいようにも思いますけどね。
とにかく宮内庁が無能すぎるというのが一番の問題だと感じました。職員が多いだけで恐らく上皇ご夫妻が両方薨去されても宮内庁の職員は減らないでしょうね。
そういうルールがないんでしょうね。だから皇族がどんどん減少しても宮内庁職員を増やすことは出来るんでしょうね。宮内庁も一度解体して本気で皇室のことを考えている組織を作ってほしいですね。
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