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美智子さま初心者短歌ダメダシ5連発、皇室利用のビジネスモデルを暴く!被災地訪問で寄り添わない心が和歌でバレた、歌集『ゆふすげ』大ヒットの裏側!

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47newsでまた美智子さまの歌集を宣伝していましたね。ここでもいくつか美智子さまの短歌を紹介していました。美智子さまが昭和、平成に詠まれた未発表の和歌466首を集めた歌集『ゆふすげ』の宣伝ですね。

歌人の永田和宏さんが美智子さまの歌を「一人の現代歌人の歌として、多くの人に読んでほしい」という強い思いから実現したということですね。

ただそれだったら普通は宮内庁がホームページで公開すればいいだけなんですけどね。美智子さま以外にも他の皇族も未発表の短歌があるわけですからね。

ちなみに過去の短歌についても永田さんがこれはという短歌を紹介していましたね。永田さんは実は以前から美智子さまの歌に注目していたようです。

今後100年読まれ続けてほしい秀歌100首としてを集めた著書『現代秀歌』は、美智子さまの若い日の1首もここに掲載されているようです。

この本には美智子さまのことを書いていませんが実は中には思いっきり皇后美智子として紹介されていました。

つまり思いっきり皇室利用していたわけですね。なんかたちが悪い感じの本ですね。恐らくこれは宮内庁にも確認してるでしょうけどね。

本の著書や説明欄にも美智子さまの名前がないのでこれは宮内庁に確認したら美智子さまの名前を使わないなら普通に厳選した100首に紹介してもいいよと言われたのかもしれませんね。

それでどうせ自分では美智子さまの短歌も紹介していますと宣伝しなくても誰かが気付いて美智子さまもあるよと宣伝してくれるわけですね。

永田さんは美智子さまに気に入られて皇室入りをしたのでしょうね。ただ永田さんは『近代秀歌』と『現代秀歌』を出版していて両方とも売れているので別に美智子さまを利用したから売れたという感じではないようです。

ただ本当に美智子さまの短歌が素晴らしいのか一つ紹介していましたがこれは美智子さまが皇室に入る時の短歌ですだから皇室に入る時は本格的にやってなくて初心者と紹介されていたので初心者として評価してもらいました。

〈てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて〉という短歌ですね。これを結婚して新たな生活を始めた若い女性の短歌です。短歌の初心者ですが歌人として厳しく評価してもらいました。

点数は出してくれませんでしたがまず 「君のせましし」の語法と意味の曖昧さで最大の気になる点は第二句「君のせましし」です。

現在の口語感覚では「せましし」という表現は相当古めかしく、かつ意味がやや取りにくいです。そして「狭し(せまし)」は「狭い」という形容詞ですが、それを「し」で結んでいる格好になっていて、文法的にも古風かつ不透明です。

そして「君の手のひらを狭しと感じるほどの(大きな)桑の実」「君のくれた(手渡された)桑の実が、手のひらを埋め尽くすようだ」などと言いたいのかもしれませんが、現状ではどこかちぐはぐで、読者に「どういう状況なのか」伝わりにくくなっています。

もし「君が手渡してくれた桑の実で、私の手のひらが満たされる/狭くなる」イメージを表現したいのであれば、より明確な言い回しにするのが望ましいでしょう。

たとえば口語寄りであれば、てのひらがふたりで狭く感じられ桑の実ひとつ重みふくらむというように、もう少し「誰がどうして狭くなったのか」を読み手がイメージしやすい工夫が考えられます。

さらに桑の実と「その一粒に重みのありて」の描写ですが、「桑の実」という意外性は悪くありません。いちごやぶどうなどよりも馴染みが薄い素材なので、「ふと目にした」「小さくても確かな重みのある果実」というイメージが出やすいという点で印象は残ります。

ただ「重みのありて」という結語が、やや古風かつ曖昧に感じられる点が惜しいところです。「ありて」は文語ですが、ほかの部分が必ずしも文語で統一されていないので、かえって浮いた印象を受けます。

「重みをおもふ」や「重み覚ゆ」など、もう少し主体の感情に寄せた文言を工夫すると、読後感がはっきりするかもしれません。

「小さいはずの桑の実に、なぜこんなにも存在感があるのか」をもう少し掘り下げると、夫や新婚生活の象徴としての「実の重さ」が鮮明になるはずです。

そして新婚・新生活のモチーフがやや弱いです。作者自身は「結婚して新たな生活を始めた若い女性」とのことですが、それが直接読み手に伝わるかというと、現状の短歌だけでは微妙なところです。

「君」という存在が夫であることはわかるにしても、「新婚だからこそ感じる想い」が桑の実だけで十分に伝わっているかというと、少し弱い印象があります。

「新生活を始めたばかり」「まだ慣れぬふたりの暮らし」による戸惑いと喜びや、「小さいけれど確かな重み」という思い。それらをもう一歩、言葉で補強してあげれば読者も新婚の幸福感を追体験しやすくなるでしょう。

たとえば「てのひらに/君がくれしは~」のように夫が渡してくれた果実と捉えるか、「ふたりで摘みし桑の実」という共同行動の描写を盛りこむかなど、何か“ふたりの生活の場面”が垣間見える表現があると、一歩説得力が増します。

まとめると良い点としては桑の実を題材にした発想。小さな果実に大きな気持ちを投影している点です。「重み」というキーワードを用いて、新婚生活での心の充実感や“ずっしりと来る”想いを表現しようとしている点です。

改善の余地としては「君のせましし」の表現が分かりづらく、読み手のイメージを妨げている。「ありて」など文語を使うなら全体を整えるか、あるいはもう少し現代語に寄せる。

新婚のシチュエーションをもう少し言葉で補強し、「小さな実に秘められた大切さ」を鮮明に描く工夫をする。初心者として「小さなものを描いて、大きな感情をにじませる」という試み自体は素晴らしいと思います。

あとはどのような文体で統一するか、読者に伝わる形でどの部分をもう少し具体化するかを意識すると、歌全体がグッと締まってきます。ぜひ次の作品では、場面のわかりやすさや表現の選び方をさらに工夫してみてください。

まぁこれが上皇さまと結婚し、東宮仮御所で新たな生活を始めた時の短歌という事ですがこの短歌のどこを評価したんでしょうね。

ちなみにこの短歌を検索したら皇后美智子さまの御歌という著書にも掲載されていたようです。皇后美智子さま全御歌という短歌の本もあるし美智子さまを絶賛して皇室利用しまくっていた人達がいるようですね。

美智子さまの名前を使っていろんな人が短歌集とかを出して名前を出せばとりあえず売れるからって感じで利用していたんでしょうね。美智子さまとしても褒められるからどんどん許可していたんでしょうね。

そして次はまた歌人4人が紹介した『新・百人一首』にも美智子さまの短歌が選ばれているようです。その短歌が〈帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず〉という短歌です。

これは2012年の歌会始だから東日本大震災の翌年ですね。上皇さまも天皇陛下の同じ年に津波に関する短歌を詠んでいるので東日本大震災についてよまれていますが美智子さまの短歌が採用されているところを見るとズブズブというのがわかりやすいですね。

この短歌お題が「岸」で海を望む岸に立ち、帰らぬ人を待つ願いで「待つ人」には、津波で行方不明となった人の家族とともに、戦後の外地からの引き揚げ者、シベリアの抑留者など、さまざまな人が重ねられているという短歌のようです。

評価してもらうと1首のなかで「岸」という言葉が歳時記(主に俳句の季語などをまとめた辞書)に掲載されていないことを取り上げ、「岸が季語ではない=帰り人を待つ時間に季節がない・定まった終わりがない」ことを暗示しているように読めます。

「帰り来るを立ちて待つ」場面は、悲しくもあり、一方でいつか帰ってきてほしいという切実な願いがこめられている。「季のなく岸」「歳時記に見ず」というフレーズが、季語に結びつかない“永遠性”や“どの季節にも属さない終わりなき待機”を強調している。

こうした“時間が止まったような感覚”を、「岸は季語ではない」というメタ的視点で表現している点は着想として面白いと言えます。ただし、次に挙げるような課題や好みの分かれそうな部分もあります。

良い点として「歳時記に見ず」という仕掛けが通常、俳句のための歳時記は四季と結びつく言葉(季語)や行事を集めるもの。その中に「岸」がないことを持ち出すことで、「四季に収まらない・永遠性のある待ち」を表すアイデアは新鮮です。

俳句(季語)に絡める発想をあえて短歌で使うのはユニークで、読み手に「なぜ岸は季語じゃないのか」「いつまでも季節が定まらず続く待ちなのだ」という気づきを促します。

そして「帰り来るを立ちて待つ」情景の重みで帰る(はずの)人を今も待ち続けると津波で行方不明の人を待つ家族、戦地から帰ることのない人を待つ妻や家族それらの思いが重ねられており一種の背景として胸を打つものがあります。

そして「に季のなく岸」という言いまわしによって、「待つことに区切りがない」悲嘆(ひたん)と切望があぶり出されています。

改善・留意すべき点としてやや“仕掛け”頼みの印象でこの歌は「岸は歳時記に載っていない」ことに思考の軸がありますが、やや“知的ヒント”に重きを置きすぎていて、読み手の情緒・イメージ喚起を阻む一面もあるということです。

「歳時記」という言葉自体が俳句寄りのメタ的視点であり、やや理屈めいて感じられる可能性があります。読者によっては「どうして急に歳時記?」「短歌の中で俳句の季語の話を持ち込んでいるけど、そこにどんな必然性があるのか?」と少し戸惑うかもしれません。

「岸」というモチーフの具体性・情景が薄いということで「帰り来るを立ちて待つ岸」の光景そのものは視覚的には想像できますが、波の音や風、海面のきらめきといった具体的な描写がなく、わりと概念的・抽象的にとどまっています。

まぁまさにひとごとで自分が岸でそう感じたわけではないのでその通りかもしれませんね。そういうところが短歌からもバレているようですね。

家族を失った当事者じゃないってことがバレているからそういった具体性がないとバレているわけですね。あいつらこんな感じに思っているのではという短歌なわけですね。

そして「岸には季節感がない(はずれた)」という発想は詩的ですが、もう少し肉体的・感覚的なひとコマがあると、読者が歌の“生”を感じ取りやすくなるでしょう。

文体・リズム面の吟味として短歌としては“5・7・5・7・7”に必ずしも厳密でなくてもよいのですが、この歌はややフレーズ割りが読みにくいところがあります。

特に「季(とき)のなく/岸とふ文字を/歳時記に見ず」のあたりは、概念が多重になっているので、もう少し区切りや接続詞の工夫があってもよいかもしれません。

たとえば「帰り来るを 立ちて待てども 岸はなく/四季に納まぬ 言の葉ぞかし」など、別の文体や切れ目を検討してみると、もう少し情緒がまとまる可能性があります。

総評として強みは「岸は季語ではない→定まった季節感を持たない、永遠に続くかもしれない“待ちの場”」というコンセプトは新鮮で、帰らぬ人を待つ普遍的な悲しみを象徴する点に成功しています。

課題として歳時記というやや俳句的・学問的装置に頼った分、情景の具体性や情緒面の掘り下げが少し後退している印象。もう少し「海辺に立つ身体感覚」や「心の揺れ」が盛り込まれると、読者に深く訴える一首となるでしょう。

まとめると、この短歌は“帰りを待ち続ける苦しさ”や“季節からも外れてしまうような無時間性”を表現する切り口が光っています。

でも、やや「岸」「歳時記」という言葉の絡め方に抽象性が強いため、一歩踏み込んだ“情景の肉付け”や“心の襞の描写”があれば、さらに読む人の胸を打つ作品に仕上がるのではないでしょうかということですね。

そういえば以前にも聞いた時は説明的と注意されていたから抽象的にしたら抽象性が強すぎる短歌になったんですかね。一応美智子さま的に頑張っているけどもという短歌なのかもしれませんね。

短歌集で紹介することでダメ出ししか見つからないですね。ちなみに2003年から歌会始の選者を務める永田さんと妻の河野裕子さんも2010年に亡くなるまで夫妻で選者を務めたようです。

2003年に歌会始の選者で2014年に現代秀歌を出版しています。そしてタイトルや商品の説明に美智子さまの名前はないですが2014年10月21日に出版しています。

美智子さまの誕生日が10月20日なのでズブズブ出版と言えそうですね。永田さんは2003年から歌会始の選者で2022年には皇室の和歌の相談相手である御用掛に就任したようですからね。

ちなみにまた戦争について詠んだ歌も紹介していましたが例えば〈軍事用語日増しに耳になじみ来るこの日常をいかに生くべき〉という短歌についても説明的と指摘されていました。

「軍事用語」が日常会話やニュースに溢れ、当たり前のように耳にするようになったという歌ですが全体に説明的で“詠み手の心情”がやや直接的に出過ぎている印象があり10点満点で7点という短歌ですね。

直接的な問いかけが強い分、“余韻”を漂わせる言葉遣いが加わると、さらに印象が深まるかもしれないと指摘されていました。

他にも永田さんが指摘する美智子さまの歌のもう一つの魅力は、言葉の流れ、音の連なりということで例えば〈ひとところ狭霧(さぎり)流るる静けさに夕すげは梅雨(つゆ)の季(とき)を咲きつぐ〉という短歌をまた挙げていますね。

でもこれは梅雨の時が説明的と指摘されていました。梅雨だけで分かるのに31文字の短歌で3文字も無駄遣いしているという点で論外という事ですね。

さらに永田さんの著書に『象徴のうた』があってここでも上皇ご夫妻の短歌を紹介しているようですね。まぁ恐らく美智子さまがメインの著書なんでしょうね。

上皇さまは美智子さまとともに「憲法に具体的な定めのない『象徴』はどうあるべきか」を求めてきたということですが別の美智子さまとズブズブの人は象徴天皇后という言葉がありますからね。

象徴とはどうあるべきかって私みたいになることよってことが言いたいんでしょうね。永田さんが歌に見いだした象徴の姿は、「寄り添う」と「忘れない」だったようですが真逆ですね。

国民に寄り添う姿が全くないですからね。水仙の短歌も紹介していますがまさにこの水仙が被災地に寄り添っていない象徴でしたからね。

被災地に震災から2週間という準備が整っていない状況で水仙を手向け後からドライフラワーにして博物館に展示させて復興の邪魔をしましたからね。

『ゆふすげ』では、よりプライベートな領域で、思いが率直に表現されているから永田さんは今回、歌集の著者として「美智子」の名を記すことを強く勧めたということですね。

つまり永田さんに言われたから私の名前で出したのよってことですね。でもこれまでの歌集では、個人名は記されていなかった。「皇后さまの歌だから良いのではなくて、普通の一人の人間、一人の歌人が作った歌として優れていると私は思っていますと紹介していますね。

ただ個人名の美智子と滅茶苦茶短歌の本を出版していますけどね。タイトルに思いっきり美智子と入っている本もありますからね。

まぁ著者が美智子として出すのは初めてと言いたいのでしょうね。印税はすべて私よという思いが詰まっている短歌だから本気で売りに来たわけですね。

私にズブズブの人達は大量に購入するのよというアマゾンの270万冊の大量の本の中で1位になるというとんでもない売れ行きだったわけですが評価を見るとほとんどコメントがないわけですね。

今見たら21件ほど評価が付いていました。ちなみに上皇ご夫妻が皇太子ご夫妻だった頃にブラジル訪問を前に会見で、歌作りについて、この年のブラジル訪問でも歌を詠む心持ちがあるかを尋ねたようです。

そしたら美智子さまは「歌はなかなかできないのでございますよ」としたうえで、宮中で毎月行われている月次(つきなみ)歌会に触れ、いつもお題を貰って歌を作るけども時によるとある場面で思いがけず歌の方から落ちてきてくれるということもございますけれども、そういうことは、何年に一度くらいしかございませんと話したようです。

そして最後にお題としてではなくて詠まれた短歌にブラジルについてがあってのでこれは歌の方から降りて来たのだろうと紹介して終わっていました。

でも皇太子ご夫妻だから短歌の初心者の時に知ったかして歌の方から降りてくるのよとか歌人みたいな立場で語っていたんですね。

皇太子妃だった頃から美智子さまが箔付けが好きだったことも分かりますね。ちなみにその短歌についてもチャットGPTに評価してもらいました。

『ゆふすげ』にも収録されている短歌で〈ブラジリアの騎馬儀仗隊その列に仔馬一頭ひたに走れる〉という短歌でまだ初心者の時だろうから厳しく評価してと質問しました。

そうすると良い点としては「ブラジリアの騎馬儀仗隊」という、旅行先ならではの光景を捉えている点は新鮮。異国の式典やパレードの迫力、そこに混ざる「仔馬」という意外性に目を留めているところに着目力があります。

「仔馬一頭 ひたに走れる」という、“場面の動き”を描こうとしている点は好ましいです。単に「仔馬がいた」という静的情報(せいてき)ではなく、「駆けている」動作が光景を具体化しています。

ただ惜しい点として現状はやや「事実の羅列」に近く、作者の驚きや感銘などが見えづらい。たとえば「どこか場違いな仔馬が列を乱しているのか、それとも微笑ましく加わっているのか」など、もう少し作者の感情や気づきを織り込むと、読む側に鮮やかさや余韻が伝わりやすくなります。

確かに言われてみれば仔馬がなぜそこにいるのかが伝わってこないですね。そしてブラジリアという異国の首都に特有の“乾いた空気感”や“色彩”などをわずかでも暗示できると、作品に厚みが増します。

「異国の空と陽光のもと、軍馬の列に仔馬が駆ける」という場面は非常に絵になるため、もう一歩踏み込んだ描写を工夫するとよいでしょう。

さらに言葉選びと文体で「ひたに走れる」について「ひたに」は「ひたすらに」という意味で、文語的とも口語的とも言い難い微妙なニュアンスを持ちます。

悪くはないものの、どこか古風な響きがあり、全体が平易な現代語寄り表現なのにここだけ文語調めいている印象があるかもしれません。

短歌では文語・口語を混ぜること自体は珍しくありませんが、どちらかに寄せて統一感を持たせると読後感がすっきりします。たとえば現代語寄りにするなら「仔馬一頭 ただ駆けている」など、素直に書く方法も考えられます。

語句の重複や余分で「ブラジリアの騎馬儀仗隊」という名詞のかたまりがやや硬質な印象を与えます。「騎馬儀仗隊の列に」「仔馬一頭」を続けるので、読み手は状況を把握する前に固有名詞が飛び込んできがち。

もし「列」を描くなら「ブラジリア/騎馬の列には」など、少し要素を整理すると読みやすくなる可能性もあります。

さらに旅行歌としての視点で旅行先で詠んだ歌には、しばしば「旅人の視点」「異文化への驚きや発見」が含まれると面白みが増します。

この歌では「ブラジリアの騎馬儀仗隊」に対し、作者はどう感じたのかが直接には書かれていません。たとえば「仔馬がいてかわいい/微笑ましい」「こんな場で仔馬まで行進しているのは意外」「子どもまでが兵列に加わるのか」といった率直な感情が垣間見えると、読み手に旅情や異文化の印象が伝わりやすくなります。

まとめとアドバイスで良い点は異国で見かけた印象的な情景を、動きある形で捉えようとしている。でも改善点として作者の思いや感情が読み手に伝わるよう、もう少し言葉を足すと良いという事ですね。

それか象徴的な表現を加えるということですね。文体の統一を図りつつ「硬い名詞づくし」にならないよう調整する。ブラジルという土地の光や空気感を背景ににじませると、より鮮やかな情景が浮かび上がり、作者の感動や驚きが共感されやすくなります。

初心者であれば、まずは「何を見たときどう感じたか」の二本柱をしっかり短歌に刻む練習をするとよいでしょう。だからどう感じたのかの心の動きをもっと詠めという事ですね。

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