百合子さまがなくなられましたね。101歳ということで皇室最高齢だったので長生きされましたね。
百合子さまはことし3月3日に脳梗塞と誤嚥性肺炎で集中治療室に入院し、一般病室に移ったあとも心不全と診断され、療養を続けられていたわけですね。
でも口からの食事も出来ない状況だったということで心臓や腎臓など全身の機能が低下していたようですね。
容体悪化の報道があって機能低下は進みつつあり、意識が低下した状態にあると報じられていたのでもう寿命だなという感じではありましたが御冥福をお祈りいたします。
まぁただ容体の悪化を受け、お孫さんの彬子さまが訪問先のイギリスから急きょ帰国して病院を見舞われたり久子さまも訪米を取りやめたり家族や親族も日本にいる状態で良かったですね。
まぁそれにしても壮絶な人生ですね。百合子さまは大正12年6月4日生まれで高木正得(まさなり)氏の次女だったようです。つまり高木百合子として生まれたわけですね。
高木正得氏は昆虫学者だったようです。東京帝国大学理学部動物学科を卒業しその後大学院を修了したわけですね。まぁ今の東京大学大学院ですね。
そして昆虫学、寄生虫学を専攻していたようです。さらに1932年に補欠選挙で貴族院議員に当選したようです。司法参与官も務めたようですが、公務の傍らチョウやカミキリムシを研究していたようです。
ただ昭和初期には、秋田県の官民共有林の払い下げを巡って詐欺的行為を働いたようです。まぁ皇族と親戚ということなのか告訴は辛うじて免れて名古屋市に移住したようです。
でも名古屋では生活に苦しくなって風船売りで生計を立てたこともあるということで仕事探しに苦労したようですね。戦後は財産税7万円余を払えずに自宅を物納したようです。
皇室の外戚だからいろいろ仕事探しも難しいようですね。1948年7月8日に探さないでと置手紙を置いて失踪して11月1日に山奥で白骨死体となって発見されたわけですね。
まぁどうやら自殺のようですね。戦争で貴重な研究資料だった蔵書や昆虫標本類を戦災でことごとく焼失したようです。そしてそれらを集め直すことが華族制度廃止で不可能になったようです。
妻も生きる気力がなくなって失踪したのだろうと考えていたようですね。百合子さまは101歳だから戦争を経験している世代なわけですね。
今は皇族数も減少して安定的な皇位継承で問題になっていますが昭和天皇の弟である三笠宮さまと結婚されて3男2女をもうけられたわけですね。
5人も子供を設けられたということでそれだけで凄い皇室に貢献されていますよね。ただ平成14年に三男の高円宮さま、24年に長男の寬仁親王(ともひと)、26年には次男の桂宮さまを亡くされたわけですね。
皇位継承者でもある息子さんを3人も亡くされたわけですね。高円宮さまは47歳だったわけですね。
そして寬仁親王は66歳でした。ヒゲノ殿下の愛称で知られていた人物ですね。そして桂宮さまも66歳でなくなりました。息子さん3人が亡くなられて父親も自殺なわけですね。
さらに平成28年には三笠宮さまをなくされて三笠宮家の当主となられていたわけですね。もういろいろと壮絶な人生を歩んでいますね。
今年3月に入院されてからは食べ物や水を口からとれていないけども、ベッドから車椅子に乗り移るなどのリハビリは続けられていたようですね。
それにしても皇室のややこしい問題は三笠宮家はどうなるのかですね。これまで彬子さまが信子さまには絶対に継がせたくないとかそういう報道がありましたよね。
アレも実はそもそもおかしいわけですね。彬子さまも信子さまも三笠宮家を継承できるルールになっているのか誰も分からないわけです。日本中の誰一人分からないわけですね。
普通に考えたら継承できません。というのも彬子さまも信子さまも三笠宮家ではないから三笠宮家の当主になれないというのが普通の見解です。
これがかなりややこしくて通常は三笠宮家のお子さんとして男子が生まれてきたら独立の宮家を持たれるわけですね。だからヒゲノ殿下が生まれたらヒゲノ宮家とか何かしら宮号が付くはずだったわけですね。
でもその宮号をもたなかったわけです。長男だからそのまま三笠宮という宮号を引き継ごうとしていたわけですね。三笠宮さまが亡くなられた時に三笠宮家の当主になっていたのでしょうね。
次男の宜仁親王(よしひと)は桂宮と宮号がありますね。だから宜仁親王家とはいわないで桂宮家となりますね。三男の憲仁親王(のりひと)も高円宮と宮号があるので高円宮家だったわけですね。
でも寬仁親王は宮号がないので寬仁親王家であり寬仁親王家の当主だったわけですね。それで亡くなった時に普通であれば信子さまが当主を引き継がれる予定でした。
ただ仲が悪くて別居していました。この別居もいろいろややこしい問題があってヒゲノ殿下はアルコール依存症でDVもあったと報じられていました。
でも1991年に寬仁さまは食道がんになったわけですね。食事を6回に分けて召し上がらなければならなくなりましたが、信子さまは献身的に食事作りに励まれたようです。
信子さまは女性自身で連載もしていたようでシリーズ人間に登場され、看病の日々について、《宮さまが“うまい”とおっしゃってくださるひと言がいちばん嬉しゅうございました》と語っています。
でも何度もがんを発症されるなか、寬仁さまのお酒の量が増え続け、夫婦の距離はどんどん開いていったようです。関係悪化の原因についてはいろいろ言われていますが寬仁さまと長年親交がある男性はアルコール依存の治療が原因のようです。
その当時は、まだ病名を公表されてなかったわけですね。それで信子さまは、がんの検査だと寬仁さまに偽って、入院させたようです。でも実際はアルコール依存症治療のための入院と知って寬仁さまが激怒したわけですね。
それで夫婦ゲンカが絶えなくなり、信子さまは2004年から別居生活を始められたようです。ただこの決断が、彬子さまと瑶子さまとの亀裂を生じさせることになったようです。
まぁ彬子さまとしたら病気のヒゲノ殿下をほったらかして別居したと思っているわけですね。ただ信子さまとしたらアルコール依存だけなら看病したのでしょうがDVが本当なら看病が難しいでしょうね。
まぁ彬子さまは信子さまが殴られた跡とかそういうのもないしDVがないと思っているから病人をほったらかして出ていったと怒っているんですかね。
これは家族にしかわからない問題でしょうけどね。ただ信子さまも同じようにDVなどで病気療養生活に入られて別居していたわけですね。
それからヒゲノ殿下や娘さんたちとも話せていなかったわけですね。彬子さまや瑶子さまからしたら病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて許せないというお気持ちだったのだろうということですね。
ただ本当に信子さまがDVや病気だったら信子さまの方にも見舞に行ってあげてという感じですからね。まぁ信子さまは病気ではなくてほったらかして出ていっただけと思っていたのでしょうね。
寬仁さまは2012年6月6日に亡くなられましたが危篤状態の寬仁さまに会うため、信子さまは何日もタクシーで病院に通われたようですがご家族の意向により、ご夫婦の対面は最後までかなわなかったようです。
それで葬儀も彬子さまが喪主で信子さまは参列出来なかったわけですね。なんか葬儀に行きたくなかった感じに思っていましたが見舞に駆けつけても会わせてくれなかったようだし葬儀にも参列したかったのでしょうね。
今回の百合子さまの葬儀に信子さまは参列させてもらえるのですかね。見舞いの報道とかも無かったですからね。
なんか報道では彬子さまと信子さまのバトルで当主争いのように報じられていますが実はヒゲノ殿下がなくなった時に両親の三笠宮さまと百合子さまの後押しもあり彬子さまが親王家の当主の座に就かれることになったようです。
でも信子さまが絶対に認めようとされず、実現しなかったようです。つまり信子さまのせいで寬仁親王家が消滅したわけですね。
だから週刊誌では彬子さまと信子さまのバトルで当主争いのように報じているわけですね。でも僕が個人的に思うのはこの問題の一番の責任は宮内庁にあると思います。
宮内庁は皇室を守るための組織ですね。それでチャットGPTに解説してもらいました。家族間の対立を放置ということで彬子さまと信子さまの対立は、寬仁親王が亡くなられた時から続く問題ということですね。
宮内庁はこの対立が表面化するまで適切な調整や対話を促すことなく放置したため、事態が悪化しました。宮内庁は皇族のサポートと仲裁を行う立場にありますが、家族間の問題を放置した結果、相互の誤解や不信が深まったと考えられるということですね。
当主の立場の不明確さで三笠宮家の当主継承についてのルールが曖昧で、誰がどの立場で当主となるのか明確でなかったことも問題ということですね。
通常であれば当主の継承は宮内庁が指導・管理するものであり、曖昧さが残るべきではなかったわけですね。宮内庁の指導が不足していたために、彬子さまと信子さまの意見の違いが深刻化したといえるということですね。
つまりヒゲノ殿下がなくなった時に当主は信子さまになりますとか両親が彬子さまを指名したのでこういうルールにより彬子さまが当主となりましたと発表すべきだったわけですね。
信子さまが反対したら消滅させますというルールは最初から存在したのか普通に考えると無くてなんとなく決まった感じですよね。つまり国会議員もなんか揉めてますなって感じで安定的な皇位継承問題と同じでほったらかして特に言及しなかったわけですね。
さらに信子さまの生活支援と名誉の管理不足で寬仁親王が亡くなられた後、信子さまは独立して生活していく必要がありましたが、宮内庁は十分な支援を行わず、その状況が信子さまにとって孤立を感じさせる要因になったと考えられるということですね。
また、信子さまがDVやアルコール依存症の問題で寬仁親王と別居していた経緯についても、宮内庁が適切なサポートやケアを行わなかったことで誤解が残り、家族内での信頼関係がさらに崩れた可能性があるということですね。
まぁ宮内庁が信子さまと彬子さまの関係修復に動かなければいけなかったのですがさらに問題を悪化させてしまったら自分の天下りポストがやばくなるので僕は関係ありませんというポジションを貫いたわけですね。
皇室を守ることよりも自分を守ることに徹したわけですね。対立が公に報じられるまでの調整不足で寬仁親王家の当主継承問題が週刊誌などで「バトル」として取り上げられるようになるまで、宮内庁が問題を解決しようとしなかったことが問題ということですね。
家族間の争いが世間に暴露され、皇室のイメージにも悪影響を与えたわけですね。対立が公に報じられる前に、宮内庁が適切な介入を行い、家族間の対話を促していれば、こうした報道は避けられた可能性があるということですね。
それと彬子さまが当主の座に就く経緯の曖昧さで三笠宮さまや百合子さまの意向により彬子さまが当主に就くことが決定されたとされますが、宮内庁がその決定を支持し、正式な形で承認するプロセスが不明確であったため、信子さまの理解や合意を得られず、対立が解消されず結果的に消滅したということですね。
これらの点から、宮内庁が皇族の家族問題に対してもっと積極的に関与し、調整を図るべきであったことが、この対立の一因であると言えるでしょうということですね。
まぁそれで現在は寛仁親王家が消滅して信子さまも彬子さまも党首ではないのですが三笠宮家の当主になる権利があるのか、恐らくルールがないから特例として作ればいいだけなんでしょうね。
そして生前の三笠宮さまと百合子さまの考えでは彬子さまに継承してほしいとなるでしょうね。でも彬子さまや信子さまに継承の権利があるなら当然久子さまにもあるんでしょうね。
だから三笠宮家の当主が久子さまになり高円宮家の当主が承子さまになることもあるし三笠宮家の当主が彬子さまや信子さまになることもあるわけですね。
そしてルールがないから消滅した寛仁親王家を復活させることも出来るでしょうね。つまり三笠宮家の当主が信子さまで寛仁親王家の当主が彬子さまなら国民はどういう反応を示すか分かりませんが皇族方は文句も少ないのではないですかね。
まぁでも仮に久子さまがなくなれば普通に考えて高円宮家の当主は承子さまですね。現在高円宮家は女性だけの宮家です。これが女性宮家というのか男性から女性に継承された宮家というのかわかりませんが宮家は女性から女性に継承が可能だということがわかりますね。
その理論からすると天皇家の当主も女性から女性に継承できるようにすべきではないですかね。そもそも天皇陛下の子供を女性だからという理由だけで天皇陛下にしたらダメだという今のルールがおかしいと思います。
だから国連から言われるわけですね。そして苦し紛れにダライラマやローマ教皇と宗教の教祖を持ち出してしか反論できないわけですね。
天皇陛下は宗教の教祖ではないです。この百合子さまが亡くなられたことで国民も少しは皇室に関心がわくタイミングだと思うので天皇陛下の子供を天皇に継承できるように皇室典範を改正してもいいか女性天皇・女系天皇も含めて国会で議論してほしいですね。
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